世界に向かって母の愛を叫ぶ

“日本のヘレン・ケラー”感動の実話


電車の中では決して読まないでください!!

少女時代に両親を失い、幾度となく火事に見まわれ、家もなくて極貧に。
17歳で生死をさまよう難病。高熱と全身の激痛、けいれん、嘔吐、そして呼吸困難、発声能力をなくし食べ物を飲みこめないほどになり寝たきりに。その後15年もの間、幾度も生死の境をさまよい、車椅子生活。
今も月に何日かは病院にかかり、明日をも知れぬ生命。
そんな数々の困難を乗り越えてきた著者が、病院から直接講演へ出かけ、全国の親や子供達に“生命がけ”で生きる勇気と喜びを伝える!!

著者の真実の講演に、全国の小中学生、父母から感動の大反響!!
茶髪の子も
「めちゃ感動した」
「マジ号泣手前だった」
「自分が恥ずかしい」……

子供のために苦労し、
子供のためにずっと泣いていた
親の涙の色や、味わいがわかったとき
親の前に身の置きどころがないほどに子供は感謝の思いでいっぱいになるのです(著者)。

「いつか動けなくなる。明日はこの世の人でないかもしれない」
 これは、いつも私の頭の中にある思いです。私の人生は、十七歳で発病して以来、六十歳を越えた現在も病との闘いが続いています。
 私は、秋田県の能代という港町で生まれました。中学時代までは、寝込むような病気など一度もしたことのない、とても元気のいい少女でした。
 高校に入ってからは、あれもしよう、これもやりたいと希望に胸を膨らませていました。
 そんなある日のこと、風邪のような症状で四十度の高熱が出て、手足に激痛が走りました。さらに体には、けいれん、頭痛、おう吐が襲い、あまりの苦しさに意識を失うほどでした。
 私が十七歳のときです。
 すぐさま入院することになりましたが、両足が麻痺してしまったために歩くことができず、三年間の入院生活は寝たきりのままでした。とくに発病当時は寝返りを打つことすらむずかしく、気管のけいれん発作で呼吸麻痺が起こることもたびたびありました。
 また、舌や口の周りの筋肉にも麻痺が起こったために、言葉のろれつが回らなくなり会話がふつうにできない、食べ物を噛んだり飲んだりできないので鼻から直接、流動食を流し込んでもらう、そんな状態が続きました。
 脳の手術を受けたせいもあったのでしょう、発声能力もほとんど失ってしまいました。
 もともと私の言葉は秋田弁でしたが、いくら周りの人に話しかけても、発音がうまくできないため、きちんと聞き取ってもらえないのです。
 赤ちゃんに戻ったようにして、もう一度一から発声のリハビリを受けなければなりませんでした。
「あ」、「あ」、「あ」、……と何度も何度もくり返しながら、ひらがな一字ずつ発声練習する日々が続きました。
 その後、なんとか退院はできましたが、発病してから十五年間は、車椅子、松葉杖、補装具などに頼る生活が続きました。その間に入退院もたびたびくり返しました。
 六十歳を過ぎた今も、週三回は透析(血液をきれいにする治療)のために通院し、三カ月に一度くらいは、二週間近く入院生活をしなければ、ふつうに生活できない状態が続いています。
 そんな私の生涯のほとんどを占領してきた“体の病”より、もっと私を苦しめたのは“心の病”でした。
「なぜ、こんな体になってまで生きなきゃいけないの」
「どうせ短い命なんだ、何もできやしない」
 それでも私が生きる希望と勇気をもち続けてこられたのは、「美しい心」、「人を思いやる心」、「温かい心」をもった人たちとの出会いがあったからです。
 そのことをこれから書いていこうと思います。

はじめにより

 

世界に向かって母の愛を叫ぶ カバー
四六判 128ページ
1260円(税込)

 

■著者略歴

森山 操
(もりやま・みさお)

 

昭和16年秋田県能代市に生まれる。車椅子に乗りながら秋田大学数学科を卒業。さらに、特殊教育を志し心理学を専攻する。その後、児童相談所カウンセラーなどを経て情操教育に取り組む。その後オアシス学校園長、全国心情教育研究会講師を歴任し、総合教育研究所を創設して所長となる。全国で講演活動を続ける。

 

 



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