◎いま「霊的世界」を知ることの意味とは?
いま、日本では空前のスピリチュアル・ブームといわれていますが、その流れはここ十数年で、ぐんぐんぐんと強まっています。
最初の大きな流れは、やはり一九九九年です。
これは、「なぜあのとき、みんながノストラダムスの予言(と言われるもの)を信じたのだろう」ということと関わりがあります。
僕は、ノストラダムスの予言が正しい解釈だったかどうかよりも、それを「終末の予言」とみんなが信じたということに意味がある、と思っています。
つまり、一九九九年あたりを境に、何かが変わるという予感が普遍的にあって、それを一番正当化させてくれそうな話をそこにもってきただけだと思うのです。
日本では、八〇年代に端を発したバブルが九〇年代に入って崩壊し、拝金主義に対して「違う!」と社会的に悟りました。
それまでの「物」中心から、「心」への回帰が始まったのです。
この頃はまた、ヒーリングや自然をライフスタイルに取り入れようという流れが、本格的に動き出した時期でもあります。
次の大きな流れは、現在、二〇〇六〜二〇〇八年です。
今回は明らかに、「自分って何だ?」「年を取らないって何だ?」「死とは何だ?」と、生と死について問うことが潮流になっています。
現在の日本では社会の価値基準が複雑になりすぎ、物事の善悪・正邪などの基準が、本当にわかりづらくなっています。そのために、これまであった仮初めの物質的基準のようなものはどんどん壊されていき、もっと心で測る、絶対基準のようなものをみなが求めるようになってきたのです。
そして自分自身の「人生」のつかみ直しをするとともに、身近な人の「死」に改めて敏感になり、人の生死そのものをつかみ直している状態といえるでしょう。
最近、親子間での殺人という、痛ましい事件が増えています。
「いったいなぜ、簡単に親を殺そうなどと思ってしまうのだろう?」と慄然とされる方は多いと思います。
僕はそれは、単純にいまの子どもたちに「霊」という概念が抜け落ちているからだと思います。
心理学でも象徴的に「父殺し」「母殺し」というように、親を乗り越えなければいけない思春期のときは、誰でも一度は「親なんかいなくなれ!」と思ったはずなんです。僕たちだって、十代のときはそうだったのです。
ただ、それが実際の殺人には至らなかったのは、「人を殺すのはいけないことだ」という人の命、人の心に対する社会的な観念がいまよりずっと重くあったからです。
悪いことをすれば地獄へ行くとか、見えないけれど神様はいるんだとか、そういう古くからの教えもまだ生きていたのですね。
いまの子どもたちが「霊なんかない」、そう言った瞬間に、人の命、人の心というものに対するイメージがおそろしく軽薄なものになってしまう。
人の命というものに対する敬虔な気持ちが、無くなってしまうのです。本当に、「霊が存在する」とその子が信じているかいないかで、ものすごく違います。
「人には霊が存在する」と思っている子は、イジメられても強いです。
「僕の怨念でいつかあいつらを見返してやるぞ」、と思うだけでもその場のパワーは出るし、「それでも人を恨むなんていけないことだ」と思えるなら、もっと精神的に強くなれるわけですから。
「霊を信じる」ということは、それだけで十分、救いになる。
このことを、親も子も、忘れないでほしいのです。
もともと私たちは全員、「霊的な存在」なのですから、心のどこかであちらの世界に根源があるということを知っているはずなのです。 |