はじめに
災害は忘れた頃やって来た
2011年3月11日午後2時46分、東日本を大地震が襲った。マグニチュード9という史上空前の数値を記録。この地震で日本列島は2・4メートル移動した。
まもなく襲ってきた大津波は、東北沿岸地区を襲い、次々と町を破壊した。岩手県、宮城県、福島県の被害がとくにひどかった。
5月24日時点で警察庁のまとめでは、死亡が1万5202人、行方不明が8718人、避難が10万8872人に達した。
しかし、これは届け出があった数字で、実際、行方不明者の数はつかめないのが現状だ。
じつは3月11日の前々日、三陸沖で地震が発生した。このとき、太平洋沿岸に大津波が予想されたが、60センチ程度の津波が観測されただけだった。残念なことは、そのために大地震当日の避難が遅れてしまったことだ。
町に住んでいたほとんどの人が瓦礫ともども流されてしまった地域もある。ある人は両親、妻、子供を一瞬にして流されてしまった。
ある息子は水面から父の手を握り、父は妻の手を握ったが、力尽き、妻は波間に呑み込まれてしまった。
いちばん被害がひどかった岩手県陸前高田市は人口2万3000人を数えたが、市の80%が壊滅し、残ったのは高台にある民家や山村の農家だけとなった。
3600戸が流失、または全壊した。死者は約1500人、行方不明者は約700人にのぼる。
地震発生時、避難所となっていた町中の体育館(口絵㈮)には70人ほどが逃げたのだが、ここで助かったのはたった3人だけだった。
この3人は、多くの人々が波間に消えていくなか、体育館の天井の鉄骨に必死にしがみついて、波から逃れることができたのだ。
隣接する市民会館も避難所になっていて、60人から70人が最上階3階の会議室に逃げ込んだ。しかし、ここで助かったのは、会議室脇にある倉庫に偶然、波とともに閉じ込められた12人のうち11人だけだった。
この11人は、天井まで水位が達した部屋で、立ち泳ぎをしながら、水が引けるのを待って助かった。まさに奇跡的な生還だった。
隣の大船渡市では、死者は少なかったが、海岸付近の港湾施設や魚の加工工場、養殖施設、イカダなどがほとんど全壊、流失してしまった。漁業に依存しているだけに、経済的なダメージは計り知れない。
はじめに
災害は忘れた頃やって来た
2011年3月11日午後2時46分、東日本を大地震が襲った。マグニチュード9という史上空前の数値を記録。この地震で日本列島は2・4メートル移動した。
まもなく襲ってきた大津波は、東北沿岸地区を襲い、次々と町を破壊した。岩手県、宮城県、福島県の被害がとくにひどかった。
5月24日時点で警察庁のまとめでは、死亡が1万5202人、行方不明が8718人、避難が10万8872人に達した。
しかし、これは届け出があった数字で、実際、行方不明者の数はつかめないのが現状だ。
じつは3月11日の前々日、三陸沖で地震が発生した。このとき、太平洋沿岸に大津波が予想されたが、60センチ程度の津波が観測されただけだった。残念なことは、そのために大地震当日の避難が遅れてしまったことだ。
町に住んでいたほとんどの人が瓦礫ともども流されてしまった地域もある。ある人は両親、妻、子供を一瞬にして流されてしまった。
ある息子は水面から父の手を握り、父は妻の手を握ったが、力尽き、妻は波間に呑み込まれてしまった。
いちばん被害がひどかった岩手県陸前高田市は人口2万3000人を数えたが、市の80%が壊滅し、残ったのは高台にある民家や山村の農家だけとなった。
3600戸が流失、または全壊した。死者は約1500人、行方不明者は約700人にのぼる。
地震発生時、避難所となっていた町中の体育館(口絵㈮)には70人ほどが逃げたのだが、ここで助かったのはたった3人だけだった。
この3人は、多くの人々が波間に消えていくなか、体育館の天井の鉄骨に必死にしがみついて、波から逃れることができたのだ。
隣接する市民会館も避難所になっていて、60人から70人が最上階3階の会議室に逃げ込んだ。しかし、ここで助かったのは、会議室脇にある倉庫に偶然、波とともに閉じ込められた12人のうち11人だけだった。
この11人は、天井まで水位が達した部屋で、立ち泳ぎをしながら、水が引けるのを待って助かった。まさに奇跡的な生還だった。
隣の大船渡市では、死者は少なかったが、海岸付近の港湾施設や魚の加工工場、養殖施設、イカダなどがほとんど全壊、流失してしまった。漁業に依存しているだけに、経済的なダメージは計り知れない。
被災地の人を忘れないでほしい
じつは、この三陸は地震・津波の常襲地帯で、30年から50年に一度、大津波に襲われている。近くは、昭和35年のチリ地震津波、昭和8年の昭和三陸地震津波、明治29年の明治三陸大津波に襲われている。
とくに明治三陸大津波では、死者および行方不明者が2万2000人に達し、史上最悪だったのだが、今回は、簡単にこの記録が塗り替えられた。
これまで、三陸沿岸の各自治体は巨大な経費を投入し、防波堤、防潮堤を構築した。津波記念日には毎年、避難訓練を続けて来た。しかし、大自然のエネルギーの前には、こうした努力はまったく活かされなかった。
今後の町づくりは縄文人の集落のように高台に作ることが、何より人的・経済的に損失が少なくてすむのではないか。
この大震災で日本国中が震撼した。慟哭、悲嘆し、多くの人たちが涙を流した。そして、多くの人たちが現地を訪れ、さまざまな方法で傷ついた被災者を思いやり、救援し、いたわった。
本書では、絶望的な状況の中で、奇跡的な生還を果たした人たち、人命救助に活躍した人たち、そして、何もかも失ったが再興に向け、立ち上がった人たちの声を集めた。
そこには、何より人の絆、思いやりが秘められていた。失ったものはあまりにも大きいが、見つけたものも少なくない。
ここに一人の少女を紹介したい。震災で母親を亡くしたが、
「復興を担うのは私たち若い世代。悲しみに負けないで生きたい」
という思いを込めて、彼女は東京オペラシティの大ホールでトランペットを吹いた。
亡くなった母に『負けないで』を捧げた
佐々木瑠璃さん(陸前高田市高田町、17歳)は、震災当時、大船渡高校の吹奏楽部で練習中だった。ひどい揺れが続き、教室の天井が壊れ、次々落ちて来た。こんな地震は初めてだ。みんなで校庭に逃げた。
3時21分、母の宣子さん(43歳)から届いたメールは、「落ち着いて。あなたはそこにいなさい」だった。
生徒たちは、迎えに来た家族と一緒に帰宅、徐々に少なくなった。
自宅は、海岸から2キロメートルほど離れた町中だ。津波はいくらなんでもそこまで届くわけがないと信じきっていた。
「お母さん、遅いな。高田町は大丈夫だったのかな」
避難所になった体育館で、不安な一夜を明かした。翌日の昼過ぎ、親戚がようやく迎えに来てくれたが、お母さんは? と尋ねると、みんな言葉を濁した。
自宅は流され、父の隆道さん(48歳)と弟たちは親戚宅に避難していた。
隆道さんは2階にいて、家ごと流されたというのだ。窓から投げ出され、濁流に流される畳にしがみつき、ようやく瓦礫づたいに高台に逃げることができた。右肩と左目を怪我し、包帯でぐるぐる巻いているのが痛々しい。
隆道さんは苦渋に満ちた顔で言った。
「母さんが見つからないんだ」
市の嘱託社員をしていた宣子さんは、避難所の市民会館で被災者の世話をしていた時、3階から襲ってきた波に呑まれてしまったということが後でわかった。
このほか祖母の隆子さん(75歳)、叔母、いとこも亡くした。祖父の廣道さん(76歳)は、今も行方不明。
こんなことがあっていいのか。お母さんもお祖父ちゃんもお祖母ちゃんも亡くなってしまうなんて。瓦礫が広がる自宅を何度も眺めたが、とても信じられない。
「ただいま」と元気に帰ってくるような気がする。
しかし、3月16日になって宣子さんの財布、翌17日には亡骸が見つかってしまった。布団にもぐると、涙が止まらない。
29日には、火葬が終わった。
いつも演奏会には、お祖母ちゃんと2人で応援しにきてくれた。
そうだ。お母さんが好きなZARDの『負けないで』を聞かせてあげよう。
そこで、4月11日、瓦礫の山と化した自宅跡で、トランペットで『負けないで』を奏でた(口絵㈯)。このトランペットは、祖母の隆子さんが買ってくれたものだった。
東京フィルハーモニーが出演依頼
この瓦礫の山を前にして、トランペットを吹く瑠璃さんの写真が朝日新聞に大きく載った。
これを見たのは、石巻出身で東京フィルハーモニー交響楽団のトランペット奏者、安藤友樹さんたちだったことが同紙の取材でわかった。
安藤さんたちは、写真から悲しい音色が聞こえるようで心が痛んだ。
自分たちでできることで何か、お手伝いがしたかった。そこで、東京オペラシティで行なう被災地支援の慈善コンサート「故郷」に出演してもらうことをお願いした。
しかし、瑠璃さんは、戸惑った。最後まで吹けるかどうか自信がなかった。でも、津波の怖さ、被災者の悲しみを1人でも多くの方に伝えるチャンスではないのか。心は決まった。
瑠璃さんの幼馴染も亡くなった。両親を失い、転校した友人もいる。それに比べれば、私には父と弟もいる。この体験を語り継ぐ責任があるような気がする。
震災から70日たった5月20日、とうとう東京オペラシティの大ホールに立った。「両親をなくした友人がいる。私よりもっとつらい人がいる。その悲しみが伝わり、支援の輪が広がれば」
と瑠璃さんは涙ながらに全国に訴えた。足が震えたが、1500人が集まった聴衆の前で、犠牲になった母を思いながら、『負けないで』を吹いた。
途中、何度か涙を拭ったが、最後まで演奏し、笑顔で一礼した。
舞台を退いても拍手は鳴り止まなかった。再び壇上に上がったが、感極まり号泣した。こんな思いを音色に託したのだ。
「復興を担うのは私たち若い世代。悲しみに負けないで生きたい」
亡くなった母が用意してくれた舞台のような気がした。
人命尊重が第一歩にならなければならない
何がなんでも、この1000年に一度といわれる大災害を乗り越えねばならない。
そのためには、この大震災を忘れずに、経済優先主義から人命尊重に回帰した21世紀型の新しい町づくりをスタートすることが第一歩にならなければならない。
本書に綴られた被災者のみなさんの叫びが、より多くの人の心に残ることを願ってやまない。そして新しい夜明けが来るまで、傷ついた人を思いやれる精神を持ち続けてほしい。
2011年5月
筆者