看取り士日記
ミトリシニッキ
限りなくやさしく、やさしく、やさしく
柴田久美子著
幸せな旅立ちを
“抱きしめて看取る”実践を重ねながら新たな終末期介護のモデルづくりに全国を東奔西走する著者。生きる力を失い自殺未遂した過去を乗り越え、やさしく慈愛に満ちた父の死を原点に、“幸齢者”に寄り添い、幸せな旅立ちのサポートに心血を注ぐ奮闘を紹介する。
主な内容
プロローグ やさしく慈愛に満ちていた父の死
夏 ヘルパーとして
秋 看取りの家……「なごみの里」
冬 母とともに
春 臨終
エピローグ 継承される命と死の文化

- 価格
- 1320円(本体1200円)
- 判型
- 四六判
- 頁数
- 144 頁
- 発行日
- 2014.3.31
- ISBN
- 978-4-87795-276-1
立ち読み
プロローグ やさしく慈愛に満ちていた父の死
お母さん、あなたは最期まで父にガンの告知はしませんでした
父は、60歳のときに胃ガンに倒れました。ガンが分かったときはすでに末期で、入院して開腹したものの手術はできませんでした。そして、すぐ自宅に戻されました。
いつもやさしい笑顔で父の看病をしていた母が、隠れてひそかに泣いている姿を、私は何度か目にしていました。幼い私には、母の悲しみに思いをはせるほどの心の余裕を持ち合わせていませんでした。
父は最期のときまで、苦しいとも痛いとも口に出すことはなく、毎日モルヒネを打ちに来てくれる看護師を笑顔で迎えて冗談を言い合っていました。
そして、寒かった出雲地方に温かい日差しがさすようになった小学6年生の春の日のこと。私がいつものようにたんぽぽの花を手にいっぱい摘んで、学校から帰ると多くの人が父の周りを取り囲んでいました。
父はお世話になった医師や看護師に「ありがとうございます。お世話になりました」とはっきりとした口調で感謝の言葉を言いました。そして、母と姉、そして兄にもお礼を言いました。ゆっくりと手を差し出すと、私の手を握り、
「ありがとう、くんちゃん」
最後にそう言って父は静かに目を閉じました。
プロローグ やさしく慈愛に満ちていた父の死
お母さん、あなたは最期まで父にガンの告知はしませんでした
父は、60歳のときに胃ガンに倒れました。ガンが分かったときはすでに末期で、入院して開腹したものの手術はできませんでした。そして、すぐ自宅に戻されました。
いつもやさしい笑顔で父の看病をしていた母が、隠れてひそかに泣いている姿を、私は何度か目にしていました。幼い私には、母の悲しみに思いをはせるほどの心の余裕を持ち合わせていませんでした。
父は最期のときまで、苦しいとも痛いとも口に出すことはなく、毎日モルヒネを打ちに来てくれる看護師を笑顔で迎えて冗談を言い合っていました。
そして、寒かった出雲地方に温かい日差しがさすようになった小学6年生の春の日のこと。私がいつものようにたんぽぽの花を手にいっぱい摘んで、学校から帰ると多くの人が父の周りを取り囲んでいました。
父はお世話になった医師や看護師に「ありがとうございます。お世話になりました」とはっきりとした口調で感謝の言葉を言いました。そして、母と姉、そして兄にもお礼を言いました。ゆっくりと手を差し出すと、私の手を握り、
「ありがとう、くんちゃん」
最後にそう言って父は静かに目を閉じました。
もしかすると、もう一度やさしく逞しかった父が起き上がって、抱きしめくれるのではないかと、声をかけました。しかし、父の目は再び開くことはありませんでした。
その場は荘厳な光に包まれ、父を囲む皆の顔がやさしく、やさしく、やさしく慈愛に満ち溢れて輝いていました。部屋は透き通るような明るさに変わり、障子の桟が光っていたように記憶しています。
かすかに笑いを含んだ父の安らかな顔を見つめながら、私は人の死とはこうも満ち足りた深い感動を誘うものなのだと心に留めて、身じろぎもせず父を見つめていました。
すると、どこからともなく今まで感じたことのない悲しみがこみ上げてきました。父の手を握りしめて私は泣きつづけました。父の手は冷たくなっていき、やがて固くなりました。
母は、私の指を1本1本父の手から引き離しました。そして「もういいでしょう」と言って抱きしめてくれましたが「いいわけないでしょう」と母を振り切って、父に抱きついて泣きつづけました。
当時の出雲はまだ土葬でした。
翌日、父の棺が埋められることがたまらなく悲しくて、土をかけることができず、私は周りの大人を困らせました。もう涙が枯れてしまうのではないかと思うほど、2日間泣きつづけました。
出雲に生まれ育った父は、ブドウ畑を営み、いつも真っ黒に日焼けをしていました。たばこは体に悪いからと飴玉をポケットに入れていて、いつもなめていました。私が学校から帰るとポケットからその飴玉を取り出して口に入れてくれました。
1頭だけ飼っていた牛を、出雲大社で開かれた牛市で売ることができず、連れて帰りました。その牛を、ペットのようにかわいがり、神戸川にいっしょに連れて行き、体を洗ってやるのが常でした。
同じ川で水泳の練習をする私は、気恥ずかしい思いがしたものです。そんなやさしい父でした。
私たち兄妹がけんかをはじめると「腹が立ったら3分してからものを言いなさい」と言うのが口癖でした。また、「大声を出すんじゃない。言葉には魂があるんだよ。だからやさしい言葉を使ったほうがいいんだ」と言います。
病院から自宅に戻った父の部屋には、いつも寝床が敷かれていて、私は学校から帰ると一目散に飛んで行きました。
「お父さん、学校でやす君がいじめるんだよ。もう学校に行きたくない」
泣きだす私に父は言いました。
「くんちゃん。きっとやす君は今ごろとても嫌な思いをしている。人間にはよい心が誰にもあるんだ。だから許してあげなさい。明日やす君に会ったら、くんちゃんから笑顔で挨拶してあげるんだよ。それができんのなら、今こう言ってごらん。やす君のこと、許しますって。ほらいっしょに言おうね」
そう言いながら、いっしょに「やす君のこと、許します」と何度も何度も口に出す父でした。
私は柴田を名乗っていますが、実家は大国です。出雲大社の祭神が大国主大神です。出雲大社の近くに生まれ、家は代々大社の氏子で、父は大国主とのゆかりをとても喜んでいました。
私は父と母から、大きくなったら大社の巫女になると、よく言われました。でも、アルバイトで巫女はしましたが、本気で巫女になるつもりはありませんでした。しかし、暮らしの中に昔からの教えは染みこんでいて、ことあるごとに出雲大社にお参りし、大国主を身近に感じてきました。
父が「ありがとう」と言って亡くなったのは、大国主の教えから、命のもとに行くと思っていたのだと今はそう思っています。
出雲大社は縁結びの神様です。大国主大神はスサノオが治める黄泉の国に行って娘のスセリビメをめとり、この世に戻っていますから、あの世とこの世を結ぶ神様です。私は看取り士として、あの世とこの世をつなぎ“死にゆく人と残される人との縁”を結んでいるのかもしれません。
出雲大社にお参りすると、不思議なことにあの世を感じることができます。大社の清らかさは、旅立ちのときの清らかさです。
幼いながらに、父から最期に「ありがとう」と言われて、そんなことは何もしていないと思いました。私が存在していることそのものが、父には感謝なのだろうか。
そう思うと余計に悲しみがこみ上げたのでした。
会いたいと思うときに会えず、話をしたいと思っても話ができません。死とはこんなにも無情なものです。
しかし、父は今も私の魂の中に生き続けています。体は朽ちて父には会えません。だからこそ、話ができないからこそ、いつも魂の深いところに、父が棲みついて、折に触れて会話をし、交流をすることができるのです。
お母さん。
お父さんが旅立った後、毎朝仏壇に向かって長い時間話しかけていましたね。50代という若さで、愛する人を送った切なさは、どれほどだったでしょう。
私は今、その年を越えて当時を振り返りながらあなたの想いを感じます。きっと、お母さんは仏壇の向こうにお父さんの声が聞こえていたのでしょう。
お母さん、あなたはもうこの世にはいませんが、あなた宛てに長い手紙を書きました。
私の心に棲むあなたに、あなたに対して繰り返してきた親不孝の懺悔の思いを込めて、そして、いつもお母さんが私の心の中にともにいてくださることに感謝して綴りました。
プロフィール
柴田久美子(しばたくみこ)
島根県出雲市生まれ。日本マクドナルド(株)勤務を経てスパゲティー店を自営。平成5年より福岡の特別養護老人ホームの寮母を振り出しに、平成14年に病院のない600人の離島にて、看取りの家「なごみの里」を設立。本人の望む自然死で抱きしめて看取る実践を重ねる。平成22年に活動の拠点を本土に移し、現在は鳥取県米子市で在宅支援活動中。新たな終末期介護のモデルを作ろうとしている。また、全国各地に「死の文化」を伝えるために死を語る講演活動を行っている。現在は一般社団法人なごみの里代表理事、介護支援専門員、吉備国際大学短期大学部非常勤講師、神戸看護専門学校非常勤講師。
主な著書に『「ありがとう」は祈りの言葉』『風のようによりそって』『看取りの手びき 介護のこころ』(佼成出版社)『死なないでください』(アートヴィレッジ)『抱きしめておくりたい』(西日本新聞社)など多数。