やっぱりすごい!! 新・子どもの脳にいいこと
ヤッパリスゴイ!! シン・コドモノノウニイイコト
知的障害は改善できる
向後利昭・鈴木昭平共著
素晴らしい改善例が続々
知的障害は「医学的に改善できない」と言われる中、「必ず改善できる!」と言明した、前著『子どもの脳にいいこと』は、大きな反響を呼んだ。第二弾の本書は、改善例をはじめ、鈴木氏が進める「エジソン・アインシュタインメソッド」の紹介、向後利昭氏が小児科医の立場から、フォローする。
主な内容
1 こんなに多くの子どもたちが救われています
2 なぜエジソン・アインシュタインメソッドで知的障害が改善するのか
3 エジソン・アインシュタインメソッドを今日から実践してみよう
4 知的障害の改善と無限の可能性を信じて
5 小麦粉と牛乳をやめたら自閉症が改善した

- 価格
- 1540円(本体1400円)
- 判型
- 四六判
- 頁数
- 216 頁
- 発行日
- 2011.1.31
- ISBN
- 978-4-87795-202-0
立ち読み
まえがき 知的障害児は私の“先生であり命の恩人”
エジソン・アインシュタインスクール協会にご相談にいらっしゃる方はほとんどが切羽詰って、焦って、思いつめて、暗い顔をしています。多くの人が「一度は自殺や子どもを連れての無理心中を考えた」といいます。
私にはその気持ちが痛いほどわかるのです。それは自分も過去、自殺を考えたことがあったからです。
私は茨城県北部の北茨城市で生まれました。「シャボン玉とんだ」などでの作詞で知られる野口雨情が生まれたところです。
両親は教師で、父親は学校の校長を長く続けていました。兄も高校の教員、妹も中学の教員になりましたが、やはり教員と結婚して今は家庭に入っています。教員一家でした。
私は大学院を出て、経営コンサルタントになろうと思っていました。大学時代に指導してくださっていた先生が「大学の教員になる道がある」と教えてくれました。そして、「それなら1年留年して論文を書いてきなさい」といわれました。
そうしたら教員になれる……というような話だったのです。研究生として大学院に在籍し、いざ一年後、論文を仕上げてみると、私のために開けてくれているはずだったポストは「公募」になっていたのです。選考で最後の二人まで残ったものの、結果は落選。東大の博士課程を修了した人に決まってしまいました。
1年を棒にふってしまい、「人生のスタートにつまずいてしまった」との念にかられ、先生を心からうらみました。それまで全幅の信頼を寄せていたのにショックでした。私自身も実力で負けたのは事実だし、どうしても大学教員になりたいという強い意志も足りなかったのだと納得するのに20年以上かかりました。
人間不信と自分自身への失望、将来への不安が一気に押し寄せてきました。当時、大学も大学院も新卒でなければ企業への就職はきわめて厳しい状況でした。いわゆる一流どころは新卒でなければ絶対に無理でした。
自分は何のために大学院まで行って論文を必死になって仕上げたのかと、将来を悲観して夜、眠れなくなり、家の近くの公園をうろうろする日々でした。
どんどん気持ちがマイナスに向かい、自殺も考えました。実際にナイフを首に当ててみたこともあります。でもどうしてもその先に進む勇気はありませんでした。
私の状況を知った母から、「戻ってきなさい」といわれ、実家に戻ることになりましたが、引きこもりに近い状態になってしまいました。
家の周りの畑仕事などをしていたのですが、枝を切るために、2メートルの木に登れないのです。それまでは10メートル以上の木だって平気で登って枝打ちをしていたのに、たかが2メートルが怖くてたまらない。人間は弱い生き物だなとつくづく思いました。
まえがき 知的障害児は私の“先生であり命の恩人”
エジソン・アインシュタインスクール協会にご相談にいらっしゃる方はほとんどが切羽詰って、焦って、思いつめて、暗い顔をしています。多くの人が「一度は自殺や子どもを連れての無理心中を考えた」といいます。
私にはその気持ちが痛いほどわかるのです。それは自分も過去、自殺を考えたことがあったからです。
私は茨城県北部の北茨城市で生まれました。「シャボン玉とんだ」などでの作詞で知られる野口雨情が生まれたところです。
両親は教師で、父親は学校の校長を長く続けていました。兄も高校の教員、妹も中学の教員になりましたが、やはり教員と結婚して今は家庭に入っています。教員一家でした。
私は大学院を出て、経営コンサルタントになろうと思っていました。大学時代に指導してくださっていた先生が「大学の教員になる道がある」と教えてくれました。そして、「それなら1年留年して論文を書いてきなさい」といわれました。
そうしたら教員になれる……というような話だったのです。研究生として大学院に在籍し、いざ一年後、論文を仕上げてみると、私のために開けてくれているはずだったポストは「公募」になっていたのです。選考で最後の二人まで残ったものの、結果は落選。東大の博士課程を修了した人に決まってしまいました。
1年を棒にふってしまい、「人生のスタートにつまずいてしまった」との念にかられ、先生を心からうらみました。それまで全幅の信頼を寄せていたのにショックでした。私自身も実力で負けたのは事実だし、どうしても大学教員になりたいという強い意志も足りなかったのだと納得するのに20年以上かかりました。
人間不信と自分自身への失望、将来への不安が一気に押し寄せてきました。当時、大学も大学院も新卒でなければ企業への就職はきわめて厳しい状況でした。いわゆる一流どころは新卒でなければ絶対に無理でした。
自分は何のために大学院まで行って論文を必死になって仕上げたのかと、将来を悲観して夜、眠れなくなり、家の近くの公園をうろうろする日々でした。
どんどん気持ちがマイナスに向かい、自殺も考えました。実際にナイフを首に当ててみたこともあります。でもどうしてもその先に進む勇気はありませんでした。
私の状況を知った母から、「戻ってきなさい」といわれ、実家に戻ることになりましたが、引きこもりに近い状態になってしまいました。
家の周りの畑仕事などをしていたのですが、枝を切るために、2メートルの木に登れないのです。それまでは10メートル以上の木だって平気で登って枝打ちをしていたのに、たかが2メートルが怖くてたまらない。人間は弱い生き物だなとつくづく思いました。
そうこうしているうちに、大学院の教授の口利きで、やっと大手スーパーに就職が決まりました。私は大学院では経営組織論を専門にしていて、本社で将来の幹部候補として採用されたつもりだったのですが、人手が足りないからと、急遽近くの支店に出勤させられました。
出社当日、三つ揃いのスーツで行ったら、それを脱がされて、いきなりゴムのエプロンと長靴姿にさせられ、その格好で魚切りを命じられたのです。
魚を切るなんて、ほとんど経験のない作業です。年下の人に怒られながら1日中、出刃包丁と格闘する日々でした。
日中は忙しいから悩む時間もなかったのですが、家に帰るとまた落ち込んで暗く過ごしていました。でも結局時間の経過とともに徐々に立ち直りました。やはり親の存在が大きかったと思います。
2回目の引きこもりは、転職を経て幼児教育・障害児教育にかかわってからのことです。その頃は結婚して、子どもも大きくなっていました。理由は仕事上のトラブルに人間関係のトラブルが重なったことでした。
仕事にはちゃんと行くのですが、家に帰ると3階の屋根裏に引きこもってしまう生活。家族と顔を合わせるのがはずかしく、みんなが寝たり、外出したのを見計らって降りていってこそこそと食事をする始末でした。
妻はこんなふがいない夫に、さぞや悲憤慷慨の思いだったでしょうが、私を責めることはしませんでした。
当時、家には私の高齢の母が同居しており、妻は子どもの世話をして、私の母の面倒も見て、そして屋根裏の引きこもりの私の面倒を見た挙句、仕事もしていたのですから、大変なことだったと思います。
私はというと、そんな状態でも仕事はちゃんとできていて、成果も上がっていました。だから子どもや親御さんは私のことをちゃんとした指導者だと思ってくれていたのですが、家に帰るとこの体たらく。
夜中にぶるぶる震え出す、食事も取れないという日々が続き、生きていてもしょうがない、自分がいても家族にも迷惑をかけるだけだと思いつめてしまいました。
当時は息子と娘が受験期でしたから、それが終わったら死のうとずっと考えていました。
こうした経験で人間がいかに弱い生き物かということを思い知りました。私には弱い立場に立たされた人の心の痛みがよくわかるのです。
そんな私を救ってくれたのは、ほかでもない知的障害の子どもたちでした。私のメソッドを実践した親御さんの子どもたちはみんな驚くほどの改善を見せ、本当にいい状態になっていくのです。
そのことがどれだけ私の疲弊した心を癒してくれたかわかりません。もしそれがなかったらどうなっていたかわかりません。少なくとも今の私はなかったでしょう。
当時、アメリカに行く機会がありました。都市と都市の間を飛行機で移動している間、窓の外を見るとそこにはアメリカ大陸の荒野が広がっていました。「地球」というものを実感したひとときでした。
ふと「この地球に何か恩返しをしてから死にたい」と思ったのです。そのとき、私にできることは何かと考えたら、知的障害児教育と胎児教育しかないと思ったのです。これが私のできることのすべてです。
知的障害児は潜在的に素晴らしい能力を秘めています。それを開発するお手伝いをさせていただくことで、人類に貢献ができるのです。
それはとびきりの開放感でした。それまでは自分のことで頭がいっぱいでした。でもそうではなく子どもたちの未来、自分以外のためということに目が向いたとき、初めて自分の存在意義も理解できたのです。
私はこのメソッドを自力で開発したのではありません。知的障害の子どもたちを観察しているうちに脳の構造というものが見えてきて、このメソッドの開発にいたりました。この脳の仕組みを理解したことで、速読や能力開発のメソッドも完成できたのです。
それを考えると知的障害児は私にとって“先生であり命の恩人”でもあるのです。
これからも知的障害児の限りなく明るい未来に向かって、皆様と一緒に歩き続けたいと思っています。
知的障害児を抱えて悩み苦しんでいる親御さんが一人でも多く救われてほしいと思いますし、みんなに笑顔になってもらいたいと心から願っています。
生きていくということはつらいこと、苦しいことの連続でもあるけれど、それを乗り越えたときにこそ、大きな喜び、幸せが花開くものだと信じています。
知的障害児をもつ親御さんは、今までは「この先どうしたらいいのか」「この子の将来はどうなる」という、先の見えない悩みに苦しんでこられたと思います。
しかし、それを乗り越えるための具体的で確実な手段があるのです。その方法を私が提供できるのです。
どうか私を信じて、明るい未来を信じて、このメソッドに取り組んでみてはいかがでしょう。
私と一緒に頑張っていきましょう。
プロフィール
鈴木昭平(すずきしょうへい)
1950年茨城県北茨城市生まれ。76年3月横浜国立大学大学院経営学研究科修士課程修了。経営学修士。同年4 月より同大学大学院研究生。ジャスコを経て常磐大学職員、常磐学園短期大学学内講師、桜美林短期大学、産能短大、日本航空高校、国土交通省・住宅産業研修財団などの講師を務める。1988年より幼児教育に携わり、2008年までに30人以上の知的障がい児が劇的な改善を遂げる。その指導方法を広めるべく2009年、一般社団法人エジソン・アインシュタインスクール協会を設立。現在同協会代表。